CULTURE

甲子園辺り今と昔・その5.昔は川だった甲子園筋

 西宮市の浜甲子園を流れる枝川は、いまはららぽーと甲子園の敷地内から南へ、浜甲子園団地の中を通って甲子園浜の処理場へ流れ込む短く小さな川ですが、実は昔の枝川はこの川ではない別の川で、それももっともっと大きな暴れ川でした。

甲子園球場の東側を南北に延びる道路、甲子園筋

 国道二号が武庫川を渡る辺り、その少し北側に武庫川女子大学の建築科のキャンパスがあります。この建物は戦前は甲子園ホテルというリゾートホテルでした。あの有名な建築家、フランク・ロイド・ライトの弟子の遠藤新が設計しました。

旧・甲子園ホテルのエントランス

 実はこのホテルが建っていた場所こそ、武庫川と枝川が分岐している三角州の部分でした。枝川はそこから浜甲子園に向かって南へ流れて、甲子園球場の辺りでさらに申川(さるかわ)と分岐して、そのまま浜甲子園で海に流れ込んでいたのです。

 枝川は度々水害を起こす暴れ川でした。もともと鳴尾という土地自体が大きく言うと武庫川の三角州のようなところだったのかもしれません。川が運んできた土砂が積もってできた土地なのでしょう。そして枝川はどんどん土砂が堆積して川底が高くなっていった、いわゆる天井川だったようです。

 甲子園球場の南西側に隣接して、素盞嗚神社があります。もうほぼ甲子園球場の敷地内、のような場所柄から虎の招き猫などタイガースにまつわる縁起物を売ってたり、モダンで明るい印象の神社です。しかしやはりここは「素盞嗚神社」です。スサノオの神というとヤマタノオロチを退治したと言われるお話で知られていますが、ヤマタノオロチというのは実は荒れ狂う川のことで、つまりは治水の神だったという説があります。なので、素盞嗚神社が建てられているところは、むかし治水に苦労した場所であることが多いとされます。

甲子園球場に隣接する素盞嗚神社

 最近よく言われる「素盞嗚神社は水害に遭わない」というのも、つまりは昔から水害に悩まされてきた土地で、その中でも被害に遭いにくかった場所に神社を建てたと言うことなのかもしれません。

 さて、そんな枝川の抜本的な治水対策として、「武庫川を広く真っ直ぐにして容量を増やして、枝川を廃川にする」という大胆な計画が立てられました。そしてそれは大正12年に実行されました。

 枝川はもともと河床の高い天井川ですから、武庫川に堤防を作って流れ込む水を止めてしまうと、あとは特に埋め立てなどしなくても河床を均すだけで道路になります。またその周辺には広い土地もできます。この土地を売って、そのお金でこの大工事の費用をまかなって、さらに国道二号の整備もやってしまおうと兵庫県は考えたのだそうです。

阪神電鉄甲子園駅。駅の下を東西に走るのが、むかし枝川だった甲子園筋

 その土地を買ったのが阪神電鉄で、大規模な住宅地や行楽地開発をしました。その一環で大正13年に甲子園球場の前身になる大運動場を作ったときに、その年の干支「甲子(きのえね)」にちなんでこの一帯が「甲子園」と名付けられました。なお、その土地の売却額は当時のお金で410万円と言われています。

上甲子園の交差点。国道二号線から南に甲子園筋が延びる

 枝川の跡地の道路が、いまの甲子園線です。上甲子園の交差点からずーっと南下して、阪神甲子園駅をくぐって、甲子園球場とららぽーとの間を抜けて、浜甲子園まで伸びているあの道路です。

 道路の左右には、もともと堤防だった名残がずっとありました。

 上甲子園から阪神甲子園までの区間は、以前は広壮なお屋敷が建ち並んでいましたが、それらはたいてい道路よりもちょっと高くなった場所に建っていました。最近はお屋敷も少なくなって、マンションなどに建て替える際に土地が削られて平らになってしまったので、当時の様子を偲ぶ景色はあまりありません。

阪神甲子園の駅前。この松林が枝川の土手の名残

 阪神甲子園駅は、もとは枝川の川の上にある駅でした。いまの武庫川駅のような感じだったかもしれません。駅の南西側、バスターミナルとコロワの間にはつい最近まで土手の名残がありましたが、いまは削られて平らになりました。南東側にはいまも土手の名残があります。コメダ珈琲とケンタッキーのある辺り、少し高くなって階段がありますよね。そしてその南側、住友銀行との間には松の木が何本かありますが、あれがもともと枝川の堤だった場所です。

甲子園筋の南の端。むかしここに路面電車の浜甲子園駅があった

 さて、そんな経緯で廃川になってしまった枝川ですが、枝川という川はいまもあります。そう、最初に書きました「ららぽーとから流れてる小さな川」ですね。西宮市の水路指定図によりますと、この川はららぽーとのところで暗渠になって、国道43号と阪神電鉄の線路をくぐって、鳴尾八幡神社の横手で再び地上に出て、その先はまた暗渠になって、枝分かれしながら甲子園三番町、若草町辺りまで辿れるようです。また河川図を見ますと、阪神の線路より北は鳴尾中川という川になっているようです。

この先は海。この松林もまた堤防の名残かもしれない

 ただ、この川が「枝川」という名前になった経緯については、調べてみましたがよくわかりませんでした。おそらく枝川町一帯が米軍から返還された辺りでこの川が枝川になったのではないかと思うのですが、どうなんでしょうね。

現在の枝川をららぽーとから見たところ